御由緒

彌彦神社の御創建について、社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。
よって彌彦神社は御創建から二千四百年以上の歴史を有する神社です。

彌彦神社が初めて国史に見えるのは『続日本後紀』巻第二・仁明天皇天長十年(833)七月戊子条に

越後國蒲原郡伊夜比古神 名神に預かる 彼の郡旱疫有る毎に雨を致し病を救うを以てなり(原漢文)

とあり、同巻十二・承和九年(844)十月壬戌条では従五位下、『日本三代実録』巻第五・清和天皇貞観三年(861)八月三日条には従四位下の神階奉授の記述が見えます。また、八世紀頃の成立とされる我が国最古の歌集『万葉集』巻十六には

いやひこ おのれ神さび 青雲の 棚引く日すら こさめそぼふる
いやひこ 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服(かわころも)着て 角つきながら

と、伊夜日子大神様の神々しさを詠った二首が納められており、延喜五年(905)奏進の『延喜式』巻十では越後国で唯一名神大社と記載され、また越後の一宮として朝廷から篤い尊崇を受けました。
このように八~九世紀頃には、遠く離れた都にも彌彦神社は顕著なる御神威ある神社として知られていたことが窺えます。

鎌倉時代以降では源頼朝が三千貫の神領を寄進し、南北朝時代には後醍醐天皇が「正宮位大明神」の宸筆の勅額を御奉納になるなど、古代以来中央にも聞こえる地方の大社として、社殿の造営修築を繰り返し、七十五名もの神官が神事祭礼を勤めていました。室町時代の作と伝えられる境内の絵図には、丹塗りの壮麗な社殿群が描かれ、当時の繁栄ぶりが偲ばれますが、応仁の乱が地方にも波及すると、社殿をはじめ御鎮座以来の記録・宝物の多くが焼失、神領も押領されるなど一時疲弊したものの、越後を領有した上杉家は三千二百石余の神領を寄進し社殿を修造・退転した神事の復興をはかりました。しかし上杉家の会津移封に端を発する越後国内の騒擾から再び神領のほとんどを失い、恒例の神事もままならず、七十五名の神官は二十五名にまで激減し混迷を極めました。

江戸時代に入ると、徳川家康からの社殿修理料三百両の奉納をはじめ、三代将軍徳川家光以降歴代将軍による朱印地五百石の安堵、五代将軍徳川綱吉寄進の社殿修繕(元禄十六年(1703)完成)など、戦国時代からの混乱が漸く解消し、安定を迎えます。この間、元禄五年(1692年)頃より吉田神道の神学者である橘三喜に師事し神道の研鑽を深めた彌彦神社神主・高橋左近光頼は、仏教化された神社の在り方をよしとせず、社僧・供僧を追放するなど神社内の仏教色を一掃し、神官と家人の仏葬を廃して新しく「神祇宗」を興すなど大々的な神仏分離を断行しました。この行動は社僧らによって寺社奉行への訴訟に発展し、その結果違法とされ全ての復旧を要求され失敗に終わりましたが、神仏分離を明治維新から遙かに遡る元禄期に先行した事は特筆すべきことであります。
維新によって江戸時代が終焉し明治に入ると、神社は国家の宗祀として位置づけられ、明治四年(1871)五月に国幣中社に列格し、国家管理のもと従来の祭典神事に加え近代神祇制度によって整備された古代からの祭祀が復活、斎行されるようになりました。明治十一年(1878)九月十一日には明治天皇の御親拝を仰ぎ奉り、江戸時代以来の民衆の参拝も隆盛し、社頭の整備拡充が図られておりました。しかし、明治四十五年(1912)三月十一日、門前町で発生した大火に罹災し、善美を極めた御本殿以下の社殿が烏有に帰しました。越後一宮の焼失は当時の越後人にとって非常に大きな衝撃を与え、県内はもとより遠く海外からも復興への志が寄せられ、大正五年(1916)、旧に倍する荘厳且つ壮大なる社殿が再建されました。

大東亜戦争後、神社は国家管理を離れて宗教法人となり、昭和二十一年(1946)、多くの神社とともに神社本庁包括下となりました。昭和四十七年(1972)五月二十三日には昭和天皇・香淳皇后の御親拝を、同五十六年(1981)には皇太子同妃両殿下(今上天皇・皇后両陛下)の御参拝を仰ぎ奉り、翌五十七年(1982)には上越新幹線開通を記念して日本一の大鳥居が奉建されました。

彌彦神社は崇神天皇御代の御創建から現在に至るまでの二千四百年以上に亘り、天皇陛下を始め皇室の御安泰と御繁栄、国家国民の安寧と限りない繁栄のために御神威の御発揚を祈念し続け、伊夜日子大神様への感謝と、魂と生命に活力を与えて下さる事を祈る方々の参拝はますます盛んとなり、年間百四十万人が季節を問わず御神前に額づいておられます。

※彌彦神社は古くは「伊夜比古神社」と記され、伊夜日子・伊夜彦・彌彦などとも表記されました。
現在は「やひこ」と言い習わされておりますが、歴史的には「いやひこ」と読んでおりました。

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